SHIKIMEI
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インタビュー03
ホンマタカシ

写真と映画の〝間〟にあるもの

取材・撮影 SHIKIMEI
協力 TARO NASU

これまでホンマタカシさんは多彩な写真を発表してきましたが、その底流にあるのは〝写真とは何か〟という根源的な問いかけです。近年はピンホールカメラへの関心を強め、2014年には「都市へ / TOWARDS THE CITY - camera obscura study」、2016年には「Various camera obscura studies - inprogress」(ともにTARO NASU)と題した個展を開いています。

camera obscura(カメラ・オブスキュラ)とは、ラテン語で「暗い部屋」のこと。「小さな穴から入る光が、対面の壁に外の光景を倒立像に映し出す現象の起きる暗い部屋や暗箱」を指し、カメラの語源となった言葉です。

その一方、継続的に映像の撮影を行い、2016年にはシアター・イメージフォーラムで〈ホンマタカシ ニュードキュメンタリー映画 特集上映〉を開催、4本の映像作品を劇場公開しました。撮影の方法論や映像言語の拡張という意味では、どれも強い批評性を帯びています。今回のインタビューでは〝撮ること〟を中心に、その考え方をうかがいました。

“Various camera obscura studies - inprogress“ 2016, Installation view at TARO NASU
©Takashi Homma
courtesy of TARO NASU
photo by Keizo Kioku

#1 出来事は自分の外側で起こっている

——ホンマさんの写真は、対象とする被写体も多種多様ですし、社会に対する提示の仕方もバラエティに富んでいます。そうしたアプローチの中心には、内容面においても形式面においても、従来の方法論への懐疑があるように感じられます。それを全面的に打ち出したのが、2011年に開催された大規模な個展「ニュー・ドキュメンタリー」(東京オペラシティ アートギャラリー)でした。この展示では、プリントだけでなく、シルクスクリーン、印刷物、映像、インスタレーションなど、さまざまな形式の〝写真〟が並び、写真なるものの問い直しを図ろうという企みに満ちていました。

ホンマ 「自分のことが好き」な作家って多いと思うんです。「自分のことをわかってもらいたい」というところから出発していて、その結果、「自己表現」をするような。でも、ぼくの場合、自分には全然興味がない。むしろ、おもしろいことは自分の外側で起こっていると考えています。

——TARO NASUでの展示に関しては〝study〟という言葉を使っていますが、これもカメラという光学器械や撮影原理を研究しているってことですよね。研究だから、そこには「自己」や「内面」はあまり関係がない。

ホンマ まあ、〝勉強〟くらいの意味合いですね。「芸術新潮」での連載もそうですけど(「換骨奪胎:ホンマタカシの映像リテラシー」)、自分の外側にあるものを勉強して、おもしろがりたいという感じ。日本語で〝勉強〟というと、つまらない行為だと思われがちだけど、知らないことに触れるのは楽しいんですよ。それを続けながら、表現を探っていくのが好きなんです。勉強と表現がぐるぐる循環しているというか。写真を撮る前提として、そういう感覚があります。

——インプットとアウトプット、あるいは、理論と実践ということですね。ホンマさんの写真を見ていると、「なぜそれを撮るのか」ということより、「いかにして撮るのか」のほうが前景化している印象も受けます。

ホンマ 「Various camera obscura studies - inprogress」では、ゴジラや富士山を撮った作品も並んでいますが、だからといって、ゴジラや富士山が特別大好きということではない(笑)。もちろん写真である以上、そこに写っているものは大事だし、自分自身、「あ、こんなものが写っていたんだ」という発見もあります。ただ、それよりも写真の〝構造〟への関心が強いんですよね。

“Various camera obscura studies - inprogress“ 2016, Installation view at TARO NASU
©Takashi Homma
courtesy of TARO NASU
photo by Keizo Kioku

#2 予期しないものが写るおもしろさ

——ゴジラや富士山の写真は〈都市によって都市を撮影する〉シリーズのひとつですね。これはホテルなどの高層建築物の一室をピンホールカメラに見立てる試みで、窓をシャッターレンズにして、そこから見える光景を撮るというものです。

ホンマ 写真の話をするときに「完璧なフレーミングで画面を構成することが大事」なんてことが言われたりしますよね。でも、それはかえってつまらないと思っていて。ぼくは、視野率100%の一眼レフじゃなくて、レンジファインダーや4×5のほうがしっくりくる。これは荒木さん(荒木経惟)とも意見が同じなんですけど。写真って予期しないものが写るからおもしろいんです。見たとおりに撮りたいわけじゃなくて、仕上がってきたとき、「こんなものが写っている」「こんなふうに撮れたのか」と、まずは自分自身が驚きたい。

——その〝予期しないものが写る〟ということの究極がカメラ・オブスキュラ。窓の外の景色しか写すことができないし、撮影者の意思もほとんど介在しないですよね。

ホンマ 部屋そのものをカメラにして、1時間とか2時間とか露光させるわけだから、イレギュラーなことが生じやすい。というよりも、イレギュラーなことばかり起こる。たとえば、撮影中、天候はコントロールできないし、光の加減もどんどん変化する。そのプロセスやアクシデントを含めて楽しんでいます。

——ちなみに、雑誌などの仕事で撮影をするときも、手早く撮るそうですね。

ホンマ 4×5で撮るときも、画面の隅っこまでは見ません。確認する前に、とりあえずシャッター切る、みたいな。枚数もそんなに撮らないですし。

——偶然性や偶発性を呼び込みたいということですね。

ホンマ ただ、偶然性を呼び込むといっても、実はなかなか難しい。たとえば森山さん(森山大道)は、ストリートに飛び込んでいって、スナップショットをばんばん撮るわけですけど、それはそれで似たような写真ばかりになってしまうというジレンマもあると思うんですね。人間って手癖がありますから。あ、これは別に森山さんを批判しているわけではないですよ。

——身体性の話ですよね。「自己」とか「内面」と同じように、「身体性」もとりあえずカッコの中に入れておこうと。

ホンマ 身体性を過剰に評価するより、カメラという機械になるべく任せたい。むしろ、そうしたほうがおもしろいものが出てくるんじゃないかと思っているんです。つまり、偶然性を取り入れるための装置としてカメラを使いたい。

“Various camera obscura studies - inprogress“ 2016, Installation view at TARO NASU
©Takashi Homma
courtesy of TARO NASU
photo by Keizo Kioku

#3 ニュードキュメンタリーとは何か

——2016年末には、ホンマさんが監督したドキュメンタリー映画がシアター・イメージフォーラムで劇場公開されました。初の長編ドキュメンタリー『After 10 years』(2016年、101分)、映像インスタレーションとして発表した作品を再編集した『最初にカケスがやってくる』(2016年、68分)、飴屋法水さんの演劇を捉えた『あなたは、あたしといて幸せですか?』(2016年、70分)、そして中平卓馬さんの姿を追った『きわめてよいふうけい』のニューヴァージョン(2004年、40分)の4本です。そのほか『女優』(2016年、15分)や『暗室』(2016年、20分)などショートムービーも併映されました。

ホンマ これも〝study〟の成果です。東京造形大学の学長を務めていた諏訪敦彦さんに招かれて、5年くらいかな、映像と写真の可能性を探る「ニュードキュメンタリー」というワークショップ形式の授業をやったんですけど、そのときに、フレデリック・ワイズマンとか王兵とか、新しいタイプのドキュメンタリー作家が何をやっているのか、作品がどういう構造になっているのかを、大学院生たちといっしょに検証しました。この知見を応用したのが、『After 10 years』、『最初にカケスがやってくる』、『あなたは、あたしといて幸せですか?』の3本です。

——特集上映のときに、ホンマさんが記した一文から引用します。「ここで僕がニュードキュメンタリーと言っている、いくつかの映像は、いわゆるメッセージのはっきりしたドキュメンタリーではありません。ましてや物語性のある映画とは全く異なります」。実際に映画を観ると、どの作品においても、多種多様な出来事や運動性が生じていることに驚かされます。どれも意図的に演出したものではなく、偶発的なものばかりですが、その分、映像ならではの強い喚起力を感じました。

ホンマ 4作品をまとめて公開したのは、それらの映画の〝構造〟を観てほしかったからなんですね。

——とはいえ、それぞれ撮影のきっかけとなった〝主題〟はありますよね。『After 10 years』はスリランカの建築家ジェフリー・バワが設計したホテルで行われたスマトラ沖地震10周年追悼式典、『最初にカケスがやってくる』は真冬の知床で行われるエゾジカ猟、『あなたは、あたしといて幸せですか?』は飴屋法水さんの演劇、といった具合に。

ホンマ ただね、逆にいうと、1本ずつ上映した場合、画面に映っているものに、観客がひっぱられてしまうと思うんですよ。「自然災害による被害」とか「高齢化する狩猟文化」とか「演劇」とか……。もちろん、画面に映っているものは大事なんだけど、それが中心的なテーマではないことを示したくて、一気に上映するかたちにしました。

#4 映像の自生性

——ホンマさんの場合、写真もそうですが、映画に関しても、〝画面の外〟を感じさせるんですよね。画面の中だけでは完結していなくて、つねに画面の外でも何かが起こっている感覚をもたらしてくれる。とくに定点カメラの作品はおもしろい。

ホンマ たとえば『あなたは、あたしといて幸せですか?』の場合、商店街の歩道にカメラを固定して撮影しているわけだけど……。

——あれは、飴屋さんの舞台そのものを撮っているのではなく、俳優たちの台詞だけが聞こえてくる仕掛けになっていますよね。映像は、演劇が上演されている小劇場というか、小さなスペースのある商店街にカメラを設置して、歩道を行き交う人々の姿が映っているという。演劇と映画、映像と音声の関係性を考えさせてくれる試みで、とても刺激的でした。

ホンマ 商店街を歩いている人たちが、どんどん写り込んでくるんですよね。大画面で観ると、自分でも気づいていなかったことがたくさん起こっていて、ものすごくおもしろい。場所が清澄白河だから、東京都現代美術館の帰りらしき人が歩いていたり、台詞でこどものことが出てきたタイミングで、ベビーカーを押して歩いている人が出てきたり。そういう出来事はすべてカメラが写し撮ってしまったものだから、あれは〝映像の自生性〟でしかないというか。そういうところに可能性を感じる。

——おもしろかったのが、歩道の脇にある「ビデオ/ダビング」と書かれた立て看板がずっと映っていたこと。深読みすると、ホンマさんの映画『あなたは、あたしといて幸せですか?』って、ある意味、飴屋さんの演劇『教室』を、特殊な方法で〝ダビング〟しているわけじゃないですか。あの看板があそこにあるのは単なる偶然なのに、やけに意味ありげなメッセージを発しているなと思ったりしました(笑)。

ホンマ 偶然といえば、イメージフォーラムでの上映には、飴屋さんのパートナーのコロスケさんと、娘のくるみちゃんも来てくれました。つまり、上映が終わると、映画に出ていたふたりが、スクリーンの前に座っている(笑)。「映画の続きかと思った」という人がいたりして、それもおかしかったな。(注:飴屋さんの演劇『教室』には、飴屋さん、コロスケさん、くるみちゃんの3人が出演している。といっても、その様子を撮影したホンマさんの映画には、彼らの姿はほとんど登場せず、音声のみが聞こえてくる)

——そういえば、シアター・イメージフォーラムでは、ちょうど同時期にアピチャッポン・ウィーラセタクンの特集上映も行われていました。アピチャッポンの作品も、どこまでがドキュメンタリーで、どこまでが演出なのかわからない構造になっている。オープン・エンディングも多いです。

ホンマ アピチャッポンの映画は大好きですね。内容も、アプローチの仕方も。彼と話したとき、どの作品も〝次に続くような終わり方〟を意識していると語っていて、印象に残っています。あれはオープン・エンディングというより、〝続く〟なんですよね。

——アピチャッポンも、映画監督であると同時に、美術館での展示も行っていますね。

ホンマ ぼくの映画も、たぶん〝映像インスタレーション〟として提示したほうが、受け入れられやすいと思う。でも、あえて映画館で上映することで、これも〝映画〟なんだと感じてほしかった。そこから、映像について考えるきっかけが生まれると思うから。でも、逆にこんどは美術館で上映しようと考えていて、そのために、もういちど再編集するつもりです。だから今回のヴァージョンで完結ということではない。

——写真集のつくりかたと、ちょっと似ている感じもします。

ホンマ そういうところはありますね。

#5 写真はどんなところにもアクセスできる

——あらためてうかがいますが、ホンマさんは写真のどこにおもしろさを感じているんですか。

ホンマ どこにでも入っていけるところかな。ファッション雑誌に載れば〝ファッション写真〟だし、ギャラリーや美術館で展示すれば〝美術作品〟になる。場所や状況に応じて、社会的な意味合いが変わっちゃうんですよね。撮影に関してもそうで、写真家はどんな領域にもアクセスできてしまう。風景を撮ったり、ファッションモデルを撮ったり、ミュージシャンを撮ったり。あるいは、美術作家のアトリエにも行けるし、有名な建築作品を訪ねることもできる。

——実際、ホンマさんは1998年に『ホンマカメラ』(ロッキング・オン)という〝一人雑誌〟みたいな本を出しています。あらためて見てみると、アイドル、女優、格闘家、風景、ドキュメント、ストリートスナップ、ファッション、広告、建築……ホントに何でも撮っている。おまけに荒木経惟さんや篠山紀信さんといった写真家へのインタビューも載ってますし。

ホンマ その延長線上で、自分がやりたいことだけをやっていたら、写真を発表する場所がギャラリーや美術館になっちゃったという感じですね。

——「やりたいことをやる」というのは、「やりたくないことはやらない」ということでもありますよね。

ホンマ せっかくこういう仕事を選んだんだから、イヤなことなんてしたくないですよ(笑)。それに、納得のいく仕事をすれば、その分、自由になれる。その連続です。そうだな、自分が自由になるために、何かをつくっているのかもしれないな。もちろん、作品が批判されることもありますけど、それはしょうがないっていうか。こっちは、自分の中に根拠のない確信があってやっているんだから。

——ホンマさんにとってアートって何ですか?

ホンマ やっぱり、生き方じゃないですかね。誰だったか、すごくいいことを言っていて。「デザインはよりよく生きるために、アートはどう生きるかのためにある」って。それはホントそうだなと思います。あっ、でも最近は〝アート〟より〝芸術〟という言いかたのほうが好きで。60年代や70年代に赤瀬川源平さんたちが言っていたような意味での〝芸術〟って、ほとんどなくなっちゃったでしょう。

——赤瀬川さんといえば「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」「ハイレッド・センター」「反芸術」、そして「超芸術トマソン」といったあたりが思い浮かびます。あのころの〝芸術〟には、コンセプチュアルな部分とバカバカしさが表裏一体で、どこかユーモラスな部分がありますよね。

ホンマ 『最初にカケスがやってくる』には225分ヴァージョンというものもあって、イメージフォーラムで1回だけ上映したんだけど、我ながら「これって〝芸術〟じゃん!」と思いましたね。外に出られないようにドアに鍵をかけておくとか、そういうことをすれば、もっとおもしろかったのかもしれない(笑)。実際は出入り自由にしたんですけど。

——定点カメラで撮ったエゾジカの死体の映像が、4時間近く、延々と映し出されるやつですよね。その間、いろんな動物がやってきて、エゾジカの内臓を食い散らかす様子が捉えられているという。

ホンマ 上映した日はものすごく冷え込んでいたんです。映画の中も雪景色だし、劇場の外に出ても寒いし。2時間くらいたったころ、人数分のコーヒーを買って、場内のお客さんに配ったりして。4時間という上映時間や周囲の状況も含めて〝芸術〟だったなあと(笑)。

(2016年12月20日、東京都千代田区「TARO NASU」にて)

“Various camera obscura studies - inprogress“ 2016, Installation view at TARO NASU
©Takashi Homma
courtesy of TARO NASU
photo by Keizo Kioku