SHIKIMEI INTERVIEW 05 - 細江 英公 HOSOE EIKOH
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細江英公

HOSOE EIKOH 被写体と写真家は共犯者
緊迫した関係性そのものを
表現のなかに織り込む

取材・撮影 SHIKIMEI
協力 細江賢治(細江英公写真芸術研究所)

戦後日本の写真を語るとき、絶対に外すことのできない写真家がいます。それが細江英公さんです。その作品は、200年近くにもおよぶ写真史と照らしあわせてみても、きわめて特異な輝きを放っています。長きにわたる活動は、太陽のごとく強い光を投げかけ、後続の写真家に大きな影響を与えてきました。

細江さんは1933年山形県米沢市生まれ。1956年に初個展「東京のアメリカ娘」を開催した後、1959年「VIVO」を結成します。その後、1961年に『おとこと女』、1963年に『薔薇刑』、1969年に『鎌鼬』と、立て続けに話題作・問題作を発表。構築的かつ幻想性を漂わせた作風で多くの人々を魅了しました。社会主義的リアリズムとは一線を画した、めくるめく傑作の数々。細江さんは通俗性を排するとともに、歴史を一気に切断し、写真のありかた自体を更新したのです。その新しさとは、戦後なるものが内包していた未来への希望として捉え直すことも可能でしょう。

2017年に84歳を迎える細江さんは、いまもなお若々しい精神と明晰な思考でもって、世界の実相を捉えようとしています。今回は1960年代の伝説的な作品を中心に、細江さん独自の写真術についておうかがいしました。

#1

写真家前夜

 写真を始めたのは17歳のころ。父親がつかっていた一眼レフを手に、練馬にあった米軍キャンプを訪ねたのですが、結果として、それが人生を大きく左右する出来事になりました。というのも、米軍キャンプで撮影したこどもの写真「ポーディちゃん」が、富士フォトコンテスト・学生の部で全国1位をとってしまったんです。

 評価されたことはもちろん、賞金額にも魅了されましてね。当時の高校生からすれば、夢のような大金をいただきましたから(笑)。もともと外交官になりたいという夢があり、そのためには、東京外語大学か東京大学に進まなければと考えていましたが、これがきっかけで写真のおもしろさにめざめてしまったのです。卒業後は東京写真短期大学に入学。現在の東京工芸大学です。戦争が終わってから7年後のことです。

 大学以上に多くのことを学んだのが、デモクラート美術家協会の面々との出会いです。なかでも、戦前から前衛的な作品を発表していた瑛九さんは、人間としても芸術家としてもたいへん魅力的で、有形無形の刺激を受けました。大学での講義より、瑛九さんの話を聞いているほうが楽しかったくらいです。

#2

「VIVO」のころ

 大学卒業後は、フリーランスの写真家として活動を始め、1956年、23歳のときに初個展「東京のアメリカ娘」を開催します。これがきっかけのひとつとなり、1957年には「10人の眼」というグループ展に参加。デモクラート美術家協会を紹介してくれた批評家・福島辰夫さんの肝いりで始まったもので、メンバーは石元泰博、今井寿恵、川田喜久治、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常磐とよ子、中村正也、そしてわたしの10人。日本の写真界が大きく変わるきっかけになった展覧会です。

 1959年、「10人の眼」の参加者が中心となり、「VIVO」を結成しました。わたし以外の顔ぶれは、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高。VIVOはマグナムをお手本にした写真家のセルフ・エージェンシーで、会社としての体裁をきちんと整え、広告や雑誌などコマーシャルな仕事にかんして、クライアントと対等な立場に立とうという考えから始まったものです。

 自分でいうのもなんですが、われわれは全員、撮影技術に長けていたし、写真のセンスもよかったから、経営としては黒字だった(笑)。けれども、3年後の1961年にあっさり解散。それぞれの環境が変化し、皆、自分の道を歩み始めたからです。

#3

『おとこと女』

 1960年、27歳のときに2回目の個展「おとこと女」を開催します。1960年代は、さまざまな領域で既成概念からの解放がうたわれていた時代。そうした中、たとえばヘンリー・ミラーなどの文学を中心に「性の解放」というテーマも注目されていたのです。「おとこと女」も写真という方法論で「性」を表現した試みで、こんなものは写真ではないと切り捨てる人がいる一方、時代にふさわしい新しい表現だと持ち上げてくれる人もいたりして、発表当時は毀誉褒貶にさらされました。

 テーマを理解し、被写体となってくれたのは、舞踏家の土方巽。彼を中心に、ダンサーの石崎みどりさん、ファッションモデルの石田正子さん、ヌードモデルの林ルミさんなどが協力してくれました。彼らの若々しくも荒々しい肉体、その存在感と関係性を、なんとかフィルムに焼きつけようと、照明効果には徹底的にこだわりました。スタジオでの撮影は十数回にもおよび、最終的には、粒子を粗くして、ハイコントラストの写真に仕上げました。

 自分自身の印象としては、この作品で初めて「写真家として世に出た」という実感をもっています。ありがたいことに、「おとこと女」は富士フイルムが主催するプロフェッショナル写真年間最高賞と、日本写真批評家協会新人賞を受賞するという栄誉に恵まれます。これは励みになりました。前者の賞金を活用し、カメラアート社から刊行したのが、写真集『おとこと女』です。

#4

土方巽との出会い

 「おとこと女」の撮影で活躍した土方巽は、わたしの人生に大きな刺激を与えてくれた存在です。舞踏家でしたから、身体性や肉体性というものの重要さを、身をもって示してくれましたし、わたしの写真に決定的な影響を与えたといっても過言ではありません。

 土方巽という名前を意識したのは1959年のこと。三島由紀夫の小説を原案とするリサイタル「禁色」に足を運んだら、照明を落とした舞台で土方巽と大野慶人のふたりが踊っていたのです。それはどんな踊りにも似ていない、まったく独自の身体表現でした。はたしてこれは踊りなのかという衝撃すらおぼえましたね。あれは、いま考えると、後に土方が生み出す暗黒舞踏の先駆けだったのです。とにかく興奮しました。「こんなすごいやつがいるんだ!」と思って。ここから土方やその周辺の舞踏家たちとの交流が始まります。

 土方さんには「おとこと女」だけでなく、「鎌鼬」でも協力してもらいましたし、それ以外にも、数えきれないほど、被写体になってもらいました。1971年には『おとこと女』のテーマをさらに深めるべく、『抱擁』を刊行しましたが、これは主に、玉野黄市、芦川羊子、小林嵯峨の肉体を被写体としています。皆、土方が紹介してくれた若き舞踏家です。
 大野一雄さんにかんしては、2006年に100歳を迎えたことを寿ぎ、写真集『胡蝶の夢』を出しました。土方巽さんも大野一雄さんも、どちらも鬼籍に入り、いまとなっては寂しいかぎりです。

#5

『薔薇刑』

 1961年、三島由紀夫さんから突然連絡をいただきました。「おとこと女」の写真家に自分を撮ってもらいたいというのです。おもしろいことに、三島さんは「ぼくが細江さんの被写体になる」という言いかたをした。当時、被写体という専門用語を口にする人は珍しく、もしかすると三島さんは写真にも造詣が深いのかなと思ったりもしました。

 わたしはそのころ28歳。怖いもの知らずでしたから、世界的に高名な作家である三島さんにまったく臆することなく、「それでは好きなように撮らせてもらいます」と宣言して、身体をゴムホースでぐるぐる巻きにしてしまいました(笑)。

 一種の賭けでしたね。しかし三島さんはなにひとつ文句を言わない。これはいけると直感し、「そのままレンズをにらみつけるように凝視して。絶対にまばたきせず、強い目線で!」と注文を出しましたが、そうした要望に対しても、三島さんは従順でした。いわば、わたしが演出家、三島さんは俳優という立場だったのです。

 といっても、最初から明確なイメージやプランがあったわけではありません。三島さんの確固とした肉体が目の前にあり、写真家としてそれにどう対峙するかが問われていた。ですから、その場の状況を的確に把握しながら、ある種の即興性でもって現場をコントロールしていくことが重要だった。ゴムホースを巻くという突拍子もないアイデアも、たまたま三島邸の片隅に置いてあるのを目ざとく見つけただけですしね(笑)。

 三島さんとの共同作業は熱を帯び、撮影はおよそ6か月、十数回にもおよびました。当初は直感的に撮影を進めていましたが、そのうち浮かび上がってきたのが「生と死」というコンセプト。旧来の三島由紀夫のイメージを徹底的に破壊して、新しい三島像を生み出すという狙いでしたが、それについて三島さんはいっさいなにもいわず、やりたいようにさせてくれました。感謝しています。

 このセッションは、1963年、集英社から限定1500部の豪華写真集として刊行されました。『薔薇刑』というタイトルは三島さんの命名。造本設計は杉浦康平さんにお願いしました。「おとこと女」では日本写真批評家協会新人賞を受賞しましたが、『薔薇刑』では日本写真批評家協会作家賞をいただくことになりました。

 なお、1970年中に新輯版『薔薇刑』を刊行予定でしたが(ブックデザインは横尾忠則さんが手がけています)、その直前、三島さんは割腹自殺を遂げ、この世を去ってしまいました。結果として『薔薇刑』は三島さんへのレクイエムとなりましたが、撮影当時38歳だった三島さんの存在感ある肉体は、『薔薇刑』のなかで永遠のものとなり、写真のなかで生から死、死から生への変転を、なんども繰り返しているのかもしれません。

#6

『鎌鼬』

 三島由紀夫さんを被写体とした『薔薇刑』をとおして、自分のなかで〝主観的ドキュメンタリー〟という方法論が明確になりました。通常、ドキュメンタリー的な手法と呼ばれるものは、あくまでも客観性に立脚すると考えられていますし、自然主義的リアリズムにおいても、できるだけ主観を排して、ありのままの状況を捉えることがよしとされています。

 けれども、わたしにとって写真とは、被写体と写真家の関係の芸術です。だから〝主観的ドキュメンタリー〟においては、わたしの主観をあえて全面に出すことによって、被写体の本質があらわになるようなものを考えていた。逆に、被写体との関係性によって、写真の内実も変化しますから、三島さんを撮った『薔薇刑』と土方巽を撮った『鎌鼬』とでは、あたりまえですが、世界観や主題がまったく異なる。共通しているのは「被写体と写真家の関係の芸術」であるという、その一点のみでしょう。

 「鎌鼬」の構想が浮かんだのは1965年。かけがえのない被写体としても、芸術論をたたかわせる友人としても、土方巽とは気心の知れた関係になっていましたから、どちらからともなく、土方のふるさとで撮影をしようよということになり、いっしょに秋田に向かいました。秋田県羽後町田代が土方巽の生地。目の前に広がっているのは、なつかしい農村の光景でした。

 アイデアを思いついたら、すぐに土方に伝え、即興的に撮影を行いました。たとえば、稲わらを干すための木組が目についたらてっぺんまで上ってもらったり、農家の方々が休憩していたらそこにまぎれこませてみたり。小さなこどもたちの前に、突然、土方が飛び降りたときは、こどもたちの表情がすばらしかった。そんなふうに周囲を巻き込みながら、なんどもシャッターを切りましたね。

 この連作については、1968年に個展で発表した後、翌年、写真集『鎌鼬』としてまとめました。芸術選奨文部大臣賞を受賞したのはうれしい思い出です。うれしいといえば、2016年、思い出の地である田代に「鎌鼬美術館」がオープンしました。これは地元の方々の尽力によるもので、ありがたいことに、名誉館長を拝命しました。それにあわせて、慶應義塾大学出版会から『鎌鼬 田代の土方巽』として新編の写真集も刊行されています。

#7

『創世記 若き日の芸術家たち』

 1960年代から1970年代にかけて、自分自身の作品制作と平行して、雑誌などでポートレートの撮影も行っていたのですが、2012年に、それらの一部を『創世記 若き日の芸術家たち』という写真集にまとめ、国書刊行会から出してもらいました。当時、先鋭的な表現をしていた若き芸術家や文学者は、いまや日本を代表する文化人。元気に活躍している方もいますし、すでに亡くなられた方々も大勢います。

 草間彌生、岡本太郎、わたしの師匠である瑛九、加納光於、靉光、野中ユリ、合田佐和子、エド・ヴァン・デル・エルスケン、東松照明、奈良原一高、澁澤龍彦、松山俊太郎、加藤郁乎、白石かずこ、高橋睦郎、寺山修司、唐十郎、横尾忠則、つげ義春、金子國義、四谷シモン、田中泯、白石加代子、坂東玉三郎、小澤征爾……。そうそうたる面子です。思えば、わたしも若かった(笑)。

 若い人に伝えたいのは、どんな表現であろうと〝本物〟に触れてほしいということ。いまはパソコンやスマートフォンで検索すれば、いろんな情報や画像が手に入ります。実に便利な時代です。けれども、そういうデータを〝本物〟と勘違いしてはいけない。〝本物〟に目を向けないというのは、本当にもったいないことですから。たとえば写真でいうと、ミュージアムやギャラリーでオリジナルプリントを見たり、書店や図書館で写真集を手にしてほしいなと思います。

 また、寺山修司さんの名言に「書を捨てよ町に出よう」というものがありますが、とくに表現にかかわる人たちは、積極的に外の世界と接触してほしいとも感じています。わたしはくりかえし「写真とは、被写体と写真家の関係の芸術である」と主張してきました。なぜなら、優れた表現というものは他者との関係性において生まれてくるものだからです。

 新しい世代による、新しい表現に期待しています。
 批判を恐れず、自分のやりたいことを突きつめてください。


(2017年2月21日、東京都新宿区「細江英公写真芸術研究所」にて)